ふと、そんなことを思った。
タイトな工程を組む若い監督の態度を見ていて、思わず心の中でそう問いかけた。
無責任な工程表は、誰でも作れる
業者との協議もない。エビデンスもない。それでも工程表を作り、さっとメールで流す。それが常套句になっている現場がある。
そして工程が遅れ始めると、急に高圧的になる。
「工程通りに進めてもらわないと困る」「人を集めろ」「間に合わせろ」「後工程に影響が出るようなら何とかしろ」
しかしその前に、問いたいことがある。
その工程は、本当に実現可能なものとして組まれていたか。業者の実情を踏まえていたか。職人が無理なく動けるものだったか。
手直しややり替えで、どれだけ多くの業者に世話になったことか。それを棚に上げて高圧的になることが、果たして現場監督の仕事と言えるのだろうか。無責任な工程表は、誰でも作れる。
工程表に欠けているもの
そうした工程表に共通しているものがある。
業者との協議がない。クリティカルパスが見えていない。どこを目標としているのかが不明確だ。柔軟に対応できる範囲すら、考慮されていない。
そして何より、相手への思いやりがない。職人の段取り、業者の事情、現場に関わる全ての人の状況——そうしたものへの配慮が、工程表から見えてこない。数字と日付だけが並んでいる。
そうした状況を何とかするのが、仕事ではないか
工程が乱れたとき、他業者を交えて何とか調整する。そうした状況を打開するために動く。それが現場監督の仕事ではないかと思う。
高圧的に「何とかしろ」と言うのは、監督の仕事ではない。それは丸投げだ。
主任クラスの裁量の良し悪しが現場を決める。その裁量とは、技術だけではない。関わる全ての人への気遣いと、誠実な調整力だと思っている。
工程への愛ではなく、職人への愛
工程に愛があるか、という話をしてきた。しかし正確には、工程ではなく、職人への愛ではないかと思っている。
同じ人間として、苦しいときは共に苦しみ、うまくいったときは共に喜ぶ。同苦であり、同楽である。
発注する側と受注する側、監督と職人——立場は違う。しかし人間として対等だ。その対等な関係の中で、相手の事情を思いやり、誠実に向き合う。それが工程管理の根底にあるべき姿勢ではないかと思う。
「工程通りにやれ」という言葉の裏に、相手を道具として見る視点はないか。改めて問いかけてみてほしい。
ガウディの言葉と重なるもの
以前、ガウディの言葉を紹介した。
「第一に愛、第二に技術」
工程管理も、同じではないかと感じている。工程表は技術だ。しかし、その工程表に愛があるかどうかは、技術とは別の話だ。
この工程で、職人は無理なく動けるか。業者は段取りを組めるか。近隣への配慮はあるか。そうした問いかけが、工程表の背後にあるかどうか。工程に愛があれば、現場は流れるように動く。愛のない工程は、どこかで必ず歪みが出る。
勇気・慈悲・知恵——その根本に信念と愛
現場管理に必要なものを、突き詰めて考えてみると、三つの言葉に行き着く。
勇気 慈悲 知恵
勇気——困難な状況でも、正しいと思うことを実行する力。
慈悲——職人や業者、近隣の方々への思いやり。同苦であり、同楽である心。
知恵——経験と学びから生まれる、現場を動かす判断力。
しかしこの三つを支えているのは、さらに根本にあるものだと思っている。
それが信念と愛だ。
何のためにこの仕事をしているのか、という信念。そして関わる全ての人への愛。その二つが根底にあって初めて、勇気も慈悲も知恵も生きてくる。
その工程に、愛はあるのか——最初の問いかけに戻ると、答えはここにあるように思う。


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